21世紀における心理学の行方
21世紀を目前にした心理学研究が今後進むべき方向性について,1992年に百周年を迎えた米国心理学会(APA)は,これまでに数多くの論議を重ねてきている.APAは80年代後半から基礎研究分野と臨床実践分野の対立を背景に,組織分裂の危機に直面していた.それを乗り越えるために,学会全体として設立百年を振返り,次の百年を見通した目標設定を模索していた.その結論は,百周年大会で“科学と奉仕”という二つの言葉に集約された.具体的には,“職場の心理学”,“家族に優しい職場環境の構築”,“健康な職場環境の創造”,あるいは“高齢化と心理学”などといった研究テーマが、これからの心理学の主要テーマになるべきだというのである(亀口,1993).
科学的研究と〈臨床の知〉
<臨床の知>とは,近代科学の危機的側面について徹底した論述を行っている哲学者の中村雄二郎(1992)の提唱した概念モデルであり,科学的研究によって入手できる<科学の知>と対比して,次のように定義されている.“すなわち,科学の知は,抽象的な普遍性によって,分析的に因果律に従う現実に関わり,それを操作的に対象化するが,それに対して,臨床の知は,個々の場合や場所を重視して深層の現実に関わり,世界や他者がわれわれに示す隠された意味を相互行為のうちに読み取り,捉える働きをする”.心理学研究においても,中村が主張するように,科学の知のみならず臨床の知を取り込むことが,要請されはじめている.システム心理学は、その先端領域での研究課題を開拓することを目的としている。
かつて心理学者の小笠原(1967)は、現代心理学のあるべき姿を論じ,臨床心理学を正統派的な心理学における別系の理論に基づく了解的方法として位置づけた。彼の主張によれば,その方法は,ある一定の枠でのみ当てはまるのであって,心理学全体をつらぬく基本的な方法として,あるいは主要な方法としてそれを認めるわけにはいかないと,断じた。あくまでも,因果の論理形式に従う形をとることであり,他の諸科学と同じ形式をとることだとしている。このような発想の根底には,近代科学の思想的基盤となったデカルト的な二元論があり,特定の原因と結果を直線的に結び付ける線形因果論,もしくは機械論が存在していると理解してよいだろう。人間の知として<機械論>が成功したのは,事象の必然的な因果連関を,実際には存在する環境との複雑な相互関係の網の中から,部分的に取り出し得たことにある。しかし,前述した中村雄二郎(1991)は,近代科学の方法の絶対性というドグマから,人々が自己を開放できない,また開放しようとしない理由として,制度化された科学の外部に出ることを研究者たちがこわがるからだと指摘している。
その結果,近代科学は<生命現象>や<関係の相互性>を無視し,軽視し,果ては見えなくしてしまったのではないだろうか。数式や多数の数量的データに埋め尽くされた近代経済学も,研究者の予測を超えた経済現象が多発する現実を前にして,人々を説得する力を失いつつあるといわれている。現実は,厳密に統制された実験室でえられた研究結果をそのまま適用するには,あまりにも複雑で雑多な要因がからみあった複雑系によって構成されているからである。チェルノブイリの原子力発電所の爆発事故やフロンガスによるオゾン層の破壊など,近代の科学と技術がもたらした地球規模の生態系の破壊についても無視することができない。ここに,新たな科学として,「複雑系の科学」が登場する素地が生まれた。システム心理学は、この新たな科学の一員でもある。
複雑系の心理学
プリゴジンら(Nicolis&Prigogine,1989)は,複雑性に対する見解を劇的に変貌させた二つの学問分野を特に強調している。第1の分野は,非平衡物理学である.この分野で得られた予想外の成果として,平衡状態から遠く離れた条件下において,ある物質が本質的に全く新しい性質を示すような現象が存在することが確認された。第2の分野は,動力学系の現代的理論である.ここでの中心的な発見は,不安定性出現の優越性だとされている。この不安定性とは,初期条件における微少な変化の効果が,後になって大きく増幅されることがある,という点である。
このような予期せぬ諸発見は,他の多くの発見とともに,“ハードな科学”と“ソフトな科学”の間の関係についての研究者の科学観に決定的な影響を与えた。古典力学の単純なモデルと,生命の進化や人間社会の歴史において見出される複雑な過程との間に存在すると信じられていた差異が,20世紀末の現在では,まさに狭まりつつある。古典物理学においては,研究者は観測する系の外側に存在すると信じられていた。彼は独自の決断を下すことができる存在であり,系それ自体は決定論的な法則に従う。しかし,そのような二元論はもはや過去のものとなりつつある。人間諸科学のみならず,物理学においても同様に,われわれは俳優であると同時に観客でもある,という認識が広まりつつある。
このような科学研究における大きな変化を背景にした時に,人間諸科学のなかでも重要,かつ特異な位置づけを持っている心理学が,その影響をまぬがれるはずはない。心理学研究への<臨床の知>の導入については,いうまでもなく臨床心理学の発展に負う部分が大きい。もっとも,心理学研究の本流の立場からすれば,それは,いまだに“別系”の扱いにとどまっている。科学研究としての心理学に対して,臨床的接近法が直接的な貢献をなしうるとの認知や期待は,いまだ学界では目にみえる形で表明されていないのではないだろうか。システム心理学は、その端緒を切り開く、まさに「21世紀型の心理学」である。