システム心理学の実践

心理療法とシステム論

システム論から見た心理療法
意外に思われるだろうが、第2次世界大戦が終結した後の1950年までに、欧米では個人の世紀は完全に過去のものとなっていた(Ruesch,J.& Bateson,G.,1951)。それまで、精神分析の一時的な隆盛は見られていたが、社会の大勢は、個人の私的な問題にかかずらわってはいなかった。原爆の恐怖、大衆の勃興,大気や水質の汚染はすべて古い問題解決法が無効であることをわれわれに付きつけていた。しかし、当時、個人、集団そして社会を単一のシステム内で提示できる適切な一般理論はまだ見出されていなかった。小集団や社会秩序に関する理論は確かにあった。しかし、個人と個人、個人と集団、集団と社会を連結することを科学者に促がす「知の結節点」は欠落していた。
その後の20年間に、サイバネティックスと一般システム理論が発展し、そのような落差を埋めることが可能になった。個人や集団ではなく、メッセージや回路を研究対象の単位とすることで、多くの実在するものを結びつける方法が発見された。たとえば、人間システムでの研究対象は少なくとも2者を含み、発信者から送られたメッセージが、集団や機械を経由することで変容しながら人から人へと伝わり、ついには初期の目的地に到達し、その結果が逆に発信地に送り返される図式(フィードバック・ループ)が、一般的に用いられるようになったからである。  20世紀後半には、科学技術が驚くべき速さで進歩したが、それは人類史のなかでも特異な時期だったといえよう。同時に、生理学と生態学、さらには行動習性学が合流して、生物科学の一般システム論が生まれた。一方、精神医学,心理学,社会学、そして人類学が合流して行動科学と呼ばれる科学を登場させた。また、行政、社会組織、集団管理、そして集団療法は、社会運営に関する知識を体系化する母体となった。これらの科学的発展と平行して、政治分野でも、それまで私的領域とされていた教育、医療、住居や公民権の問題に政府が直接に関わるようになった。こうして、それまで軽視されていた人間存在の社会的側面が技術的視点と同格に扱われるようになったのである。
これらの社会的変化は、やはり第2次世界大戦後に一般化した心理療法の実践や研究にも影響を及ぼさないわけにはいかなかった。個人を対象としてきた精神医学においてさえ、心理面接の過程を面接者とクライエントの間で交わされる相互作用過程として捉えるようになった。つまり、心理療法における複雑な心理過程を、治療的目的を持って展開される、ある特殊な「コミュニケーション・システム」として理解し、観察・研究の対象にし始めたのである。文化人類学者のベイトソン(Bateson,G)と精神科医のロイシュ(Ruesch,J.)らは、精神科医の臨床実践の場面をテープに記録したり、あるいは文化人類学的手法を駆使して、参与的観察を行った。こうして、心理療法の生の面接場面で進行する人間同士のコミュニケーション・システムに関する第1級の「データ」が収集されるようになった。つまり、この大胆な試みによって、心理療法の過程が関係者以外には知ることのできない「密室の秘事」から、科学的研究の対象へと転換する端緒が切り開かれたのである。

システム論から見た家族関係の病理
コミュニケーション研究の専門家としてベイトソン・グループに加わったヘイリー(Haley,J.)は、在郷軍人病院で統合失調症患者と面接し、それを録音した結果、一人の青年が両親との面会の後に必ず重度の不安発作に襲われることを発見した。その理由を探るために、ヘイリーは両親に次の面接のために来院するよう依頼した。青年と両親との面接を通じて、セラピストは意外な事実に出くわした。
 いかにも立派な外見をした母親がわずか数分でかなり理知的な息子を一変させ、思考の混乱、矛盾した言葉遣い、不適切な発言、その他の統合失調症的症状を生じさせたのである。この事件は「母の日」の直後に起こった。母親は、セラピストに息子が病院から送ったカードを見せた。添え書きには、「私の母親みたいな人へ」と記されてあった。母親はとても傷ついたと訴えた。息子は、「ねえ,母さん。僕はただちょっとからかっただけなんだよ」と言って自己弁護した。そこで、母親は、なんとも矛盾したせりふをまくしたてた。息子を助けるためにはどんな犠牲もいとはない、あるいは自分は息子のためには何でもしてやる聖母マリアと同じだと言ったかと思うと、今度は、自分たち夫婦はそんなひどい扱いを受けたことなどないごく普通の人間なのに、息子からめちゃくちゃにされるのはごめんこうむりたいと言い出すしまつであった。
 息子はこの猛攻に後退させられてしまった。まず、息子はカードのことを覚えていないと言い始め、次にカードを売った店を責め、病気になってからカードの言葉遣いに注意をしなくなったと弁明し、しまいには母親が「まあまあの母親」だったと思うと強調した。父親が「本当の母親」だと助け舟を出したので、息子は「うん、本当の母親―それだけさ」とオウム返しにつぶやくしかなかった。
それはちょうど猫がネズミをもてあそぶような薄気味悪いゲームを見ているようだった。ベイトソンが統合失調症的コミュニケーションに関心をもった最初の理由は、この種のゲームを見たからであろう。これは、コミュニケーションの送り手が、その関係をコントロールしていることを示す「命令」メッセージを暗暗裏に含んでいる「報告」メッセージに対する事実上のアレルギー反応とも受け取れる。この観点に立てば、「思考障害」は絶望的な状況における防御策として再定義できるかもしれない。この闘争の相手が示す、あいまいで無定形もしくは不適当なコミュニケーションも同様に防御策として定義されるだろう。思考の混乱が生じるのは、相手のせりふに含まれている自分たちの関係についての定義をすんなり受け入れてしまえば、相手に支配権を与えてしまうことになるからである。
統合失調症者の思考障害とその障害に及ぼす家族コミュニケーションの影響に関心を持ち始めたもう一人の精神科医がウィン(Wynne,L.)である。彼は、ベイトソン・グループと同様にシステム論的観点から家族をとらえ、統合失調症の家族特性が冗長性にあることに気づいた。そればかりでなく、移行連合(連合を組む相手を次々に変えること)についてのヘイリーの観察を支持し、「統合失調症の家族では,協力分裂の構造が、めまぐるしく変わるが、どの特定の協力関係についてもその意味がはっきりしない点では、ゆるぎない恒常性がある」と、述べている。観察者にとってはこの分裂や協力は、「心理的隔離状態」のなかで互いに分断・分離されているような印象を与えることに、ウィンは注目した。その結果、協力は真の親密さではなく、「偽相互性」であり、分裂は真の敵意や隔たりではなく「偽敵意」であることが分かった。これらの感情表出を支配する見えざる法則があることを直観したウィンは、次のように述べている。「ある提携関係が所与の家族療法集団内で出現してきたときには、他のレベルもしくは集団の他所で生じつつある分裂状態を探せ。分裂が生じてくれば、それに連動する提携関係が見え始めるはずである」。
ウィンは、このような分裂から提携、あるいはその逆の変化が、家族におけるホメオスタシス的な維持を行っている過程と関係しているのではないかと感じていた。彼は、このような過程はどの家族にも生じるものの、統合失調症者の家族の場合には、とりわけ鮮烈で、顕著だと主張している(Hoffman,L.,1981)。

システム論と家族療法の誕生

心理療法大国アメリカにおける家族の崩壊
システム論やそれを基盤とする科学技術が社会のあらゆる領域で発展を遂げた60年代後半から70年代前半の時期は、ソビエト連邦と並んで超大国となったアメリカがべトナム戦争にのめりこんでいった時代でもあった。同時代のわれわれ日本人の関心もそこに集中していた。しかし、そのアメリカ社会の裏庭では、平均的な家族が構造的な変革を遂げつつあったのである。当時の離婚率の急増に象徴される家族の変化は、人々が心理療法に求める援助の質に構造的な変革を迫った。もはや、心理療法家は個人を対象とする心理的援助の理論と技法だけでは、ポスト工業社会にいち早く突入したアメリカの家族がかかえる心理的問題に適切に対処しきれなくなっていた。家族療法が70年代以降のアメリカ社会で飛躍的に発展した背景には、当時のアメリカ社会で生じた価値観の大変動と「家族崩壊」ともいえる現象があったのである。
アメリカでは、第2次世界大戦後の急速な社会変動に伴なう多種多様な要因が複雑に作用して、「夫婦2組ごとに1組の離婚」という現象が生まれた。その結果、両親に離婚される子どもは1972年の時点で、毎年30万人に及び、その3分の2が10歳未満であった。両親に離婚された18歳未満の子どもは、全米に700万人におよんだ。6人に1人の子どもが親に離婚されていることになる(我妻、1985)。離婚は必要悪とはいっても、親子ともども味わう苦痛は大きい。しかし、核家族にとって相談する相手もいない状況では、専門家に頼る以外に解決の手段が見出せない場合も多い。このような家族の状況そのものが、家族の心理的・情緒的問題を直接に扱う専門家としてのシステム論的家族療法の登場を促がす「生みの親」もしくは「母胎」だったのかもしれない。

システム論的家族療法の起源と進化
精神分析の生みの親がフロイトであると衆目が一致しているのとは異なり、家族療法の生みの親が誰であるかは明確でない。家族療法の生みの親と想定される人物は、精神科医のアッカ―マン(Ackerman,N.)をはじめ1950年代の全米各地に複数存在し、それぞれに追随者を獲得して個々の学派ないし、グループを形成したからである。日本的な比喩を使えば、家族療法の「総本家」というものは最初から存在せず、複数の「分家」から出発したと理解することもできる。分家としての各学派の間での交流は比較的盛んに行われている。「本家争い」のような権力奪取をめぐる分派間の争いよりも、むしろ兄弟姉妹のように水平的な関係にあると見ることもできる。もっとも、親しい同胞間でも兄弟喧嘩があるように、各学派間での対立や抗争がないわけではない。しかし、それが泥仕合のような状況ではなく、次第に統合されつつあるのは、いずれの学派の場合にも、理論的中核に家族システム論が置かれるようになったからであろう。さらに、システム論の採用により、狭い心理療法の枠組みをはるかに超え、自然科学や行動科学の広範な諸領域とも活発な交流が行われるようになった(亀口、2000)。
家族療法が誕生してほぼ1世代が経過した80年代初頭に、ホフマン(Hoffman,L.)は主要な家族療法の理論と技法を紹介するとともに、その統合を試みた著書を著している。ホフマンによれば、心理療法におけるシステム的な進化は、自然科学や行動科学における大きな変革と軌を一にしている。彼女は、新しい認識論、つまり進化的パラダイムの中心概念は、円環性・循環性の発想であると考えた。それは、「逸脱や偏向も、それを矯正しようとする人々が自分の観点にしがみつかなければ、存外に否定的なことではないという発想に興味をそそられた」という著書のなかの言葉に雄弁に示されている(Hoffman,1981)。
心理療法におけるシステム的観点への移行、つまり、「あなたを助けるために、あなたの家族と会いたい」と告げること、それ自体が効果的な介入になっていることは、家族療法の奇跡とも言われている。開放的でかつ相手を責めない態度で、家族の一員の痛みや障害を調べ、修正するために、できるかぎり家族を集めることは、驚くほど有益である。同様に、家族療法の発展が特定の教義を共有する心理療法家によってのみ達成されたのではなく、家族機能に関心を持つ多種多様な専門領域の研究者や理論家の参入によって活性化されたことを忘れてはならない。
そこには、人間がかかえる根源的な問題の解決を目指す、家族システム研究と家族臨床の密接な連携作業のめざましい成果をみることができるからである。関連する領域が増加することは、われわれが扱う課題がより複雑化することを意味する。従来は、この複雑さを回避する形で問題の処理がなされていたが、現在では「カオス理論」あるいは「複雑系の科学」と称される最新の科学的発想法により、人間の行動や心理的事象に直接接近することも可能になりつつある。

わが国におけるシステム論的家族療法の展開

日本の家族療法
欧米に比べれば、わが国における家族療法の歴史はまだ浅い。家族療法が体系化しつつあった1960年代や70年代にも、わが国では、ごく一部の専門家の関心を引く程度であった。しかし、80年代に入って、家族療法に対する関心は一挙に高まりをみせた。当時、10余年の臨床経験を経ていた筆者は、80年代初頭にニューヨークで家族療法の訓練を受け、帰国後ただちに家族療法の実践と研究および後進の指導を始めた(亀口、1984)。その他にも数名の若手の精神科医や臨床心理学者が、アメリカで全盛期を向えつつあったシステム・アプローチに基づく家族療法を学んで帰国し、各地で紹介を行うようになった。
さらに、ミニューチンやヘイリーなどの著名な家族療法家がぞくぞくと招聘され、ワークショップや研修会を通じて最新の家族療法の理論と技法が導入されるようになった。家族療法に対する心理臨床家の関心が高まったことにより、学会設立の動きが促進され、1984年には、日本家族心理学会および日本家族研究・家族療法学会があいついで発足した。その結果、80年代末には主要な家族療法の理論と技法について、家族療法を志向する心理臨床家の間では、ほぼ共通した理解が行き渡ったといえるのではないだろうか。ただし、それは家族療法や短期療法を実践する心理臨床家の枠内に限定される傾向があり、その他の大多数の心理臨床家には及んでいないのが現状である(亀口、1997)。
欧米の先端的な家族療法では、家族療法と個人療法、あるいは集団療法やコミュニティー・アプローチとの統合の可能性を追及しようとする新たな動きが出始めている。この点では、むしろわが国の心理臨床家の方が優れた業績をあげる潜在的可能性を秘めているようにも思われる。なぜなら、日本人は古来、諸外国からさまざまな文化的影響を受けつつも、異質な組み合わせを独自にアレンジする能力を発揮してきたからである。心理臨床の分野でも、これまで相互に排他的な関係を維持してきた各学派間に、新たな連携や統合の気運が高まる可能性がある。戦後一貫して続いてきた欧米からの輸入一辺倒を打破し、わが国独自の心理臨床の理論と技法を確立する時期に来ているのではないだろうか。真の国際化が要請されはじめた現在こそ、その好機であろう。
筆者は、家族療法を始めて数年後に、日本の家族に特有のコミュニケーション・パターンの特徴を体験的につかみ始めた。同時に、日本の家族システムにおける世代間の差異に注目することになった。おそらく、日本ではアメリカ以上に各世代間の体験内容に大きな差があるからではないだろうか。ひとつの家族のなかでも、価値観や性役割観に歴然たる世代間の差異が見受けられるところに、潜在的な問題の芽を感じることが少なくなかった。家制度や血縁による束縛や絆が緩くなっている現代の家族にあっては、この差異は世代間の分裂や対立に容易につながる危険性をかかえている。
とくに、3世代同居の家族では、その傾向が顕著に表われていた。典型的な中年の親世代の場合には、戦前の日本の価値観を引きずっている祖父母世代とのズレに加えて、すでに生れたときからマスメディアの影響下におかれている自分たちの子ども世代とのズレにも対応しなければならないからである。また、狭い国土のわりに、通信・交通の手段が発達したわが国では、別居の場合でも3世代間の相互作用を軽視することはできない。それぞれの世代の「常識」が違っていることは、社会への適応条件を考えるうえでも、やっかいな問題となることは言うまでもない。筆者自身は、ここに日本の家族関係における「カオス状態」の発生の一因があると見ている。また、その傾向は、21世紀においてさらに加速されることも予測される(亀口、1997)。

日本独自の家族システム論の確立に向けて
わが国における家族臨床を真に根付かせるためには、システム論をはじめとして欧米で発達した家族臨床の理論モデルをそのまま持ちこむことは、必ずしも適切だとは言えない。日本の社会システムの功罪両面を歴史的・生態学的観点から再考し、さらに各領域の独自性や特異性にも配慮したな独自の理論を確立し、有効な実践モデルを作り上げていくことが求められている。
家族療法を実践する過程で、世代の異なる家族構成員との同席面接の経験を重ねているとしだいに各人の人生周期における段階の意味と、その関連性に目が向いて行く。もともと家族療法の理論形成において、家族人生周期(family life cycle)は主要な論点でもあった。個人の人生周期と同様に家族人生周期でも移行段階には家族危機が発生しがちだとされている。しかし、家族療法における面接過程の進行とともに、両親が自分達の人生を振り返り、子どもの問題が表面化してきた過程とその意味に、徐々に気づくようになるのは、実に印象的である。とりわけ、思春期の子どもの不登校事例などでは、祖父母世代、親世代、子ども世代の各々の危機が連動して起こっている様子が手に取るように分かることも多い。
子どもが思春期に達する頃には、両親が夫婦関係の稀薄化や仕事上の悩みを抱えていることが多く、その祖父母も老年期に特有のさまざまな心身の不調を示すようになっているものである。それまでとは違った家族の役割分担や関係の取り方が求められるものの、急激な変化を受け入れられない家族も少なくない。このような潜在的な家族内ストレスが高まった事態のなかで、不登校などの子どもの問題が生じがちである。
戦後の母親達が願った「よい子」とは、言葉を変えれば、親を喜ばせることができる「親孝行な子ども」にほかならない。違いがあるとすれば、戦前までは儒教的道徳観を背景にして親が子どもに親孝行を強いたのに対し、孝行という言葉が死語と化した戦後にあっては、親が望ましいと判断した行動様式を、「子どもの将来のため」という名目で選択させるようになったことだろう。しかし、中国女性史の研究者である下見(1997)が指摘するように、母親を喜ばせることが儒教文化における「親孝行」の真髄だと理解すれば、戦後の親子関係の本質は、戦前のそれとさほど違いはないのかもしれない。むしろ、受験競争の激化にみられるように子どもが自らの自然な欲求に従って行動を選択するよりも、親の選択に従う傾向がさらに強化された側面さえある。つまり、表向き儒教固有の言葉が使われなくなっただけで、戦後の母子関係の内実は、子どもが親の喜ぶ行為を献身的に行うという儒教文化の伝統に添ったものだったのではないだろか。この辺りに、儒教文化の特質を見据えたわが国独自の家族療法の理論と技法を開拓する必要性が潜んでいるように思われた。
ところで、筆者が家族療法の基本的な枠組みとして採用したミラノ派の特徴の一つに、中立性の維持がある。これは、家族療法家がいずれの家族構成員に対しても偏よった支持をしないという治療原則である。筆者も初期には、この原則を忠実に実行しようと努めた。しかし、1ヶ月という長いインターバルをおきながら、なおかつ家族との関係を維持するためには、家族療法家が単に中立であるだけでは不十分であることを体験するようになった。家族の全員に対して積極的に共感し、おのおのの家族への貢献を認め、支持する態度を家族療法家が積極的に示す必要があることに気づき始めたのである(亀口、1997)。
このような筆者自身の家族療法における体験は、初期のミラノ派が、いったんはしりぞけた「感情」の積極的な再評価へと向かわせた。興味深いことには、ミラノ派のひとびとも最近では徐々に、家族療法の実践過程における感情要因の重要性を強調するようになってきている。このような家族療法の変化は、家族システム自体の自己組織化や変化の潜在的可能性に信頼を置く立場からすれば、当然の成り行きでもある。家族療法の実践過程におけるセラピストの強調点が移行してきたにすぎないと見るべきだろう。
家族療法における感情過程への焦点化によって、従来の共感的対応を主体にしてきた心理療法諸派との連携もスムーズになってきたように感じる。感情という共通の体験様式を基軸にすることで、個人あるいは集団療法と家族療法とを混乱することなく使い分ける方法を見出せるのではないかという期待も生れてきた。実際、さまざまな状況をかかえた家族に対して一律の手法で対応することは決して適切ではないし、臨床現場の実状からしてもそうはできないからである。
家族療法の臨床経験が10年を超す前後から、臨床的認識の基礎をなす「境界設定」そのものに、思考活動が集中し始めた。それまでに扱った臨床事例を組織的に整理していくうちに、「家族境界膜」という構成概念がキーワードとして浮び上がってきた(亀口、1992)。これまでの臨床体験のなかで、もっとも印象が強かったのは、家族との面接過程で時に生じた混沌とも呼べるような状態であった。とくに、同席している家族構成員の間にさまざまな葛藤があり、しかも明確に言語化されないような家族面接では、そのような事態が発生しがちであった。セラピストも面接の方向を見定めることができず、窮地に陥った体験を強いられる。精神分析的な面接過程で言えば、クライエントからの否定的な感情転移を受けたセラピストが、否定的な逆転移を起こしている状態に近いだろう。
家族療法では、いくつもの2者関係あるいは3者関係が同時進行しているだけに、ことはいっそう複雑である。このような場面での体験を比喩的に表現すれば、「渦」に巻き込まれた感覚と言って良いのではないだろうか。このような体験をさせられたときには、初期のミラノ派が「中立性」の維持を主張していたことを思い出し、その正当性を納得せざるをえなくなる。しかし、家族の感情過程に踏み込む決意をしたからには、それが作り出す渦を避け続けることは不可能にちがいない。では、どう対処すれば良いのか。この問いを考え続けることが、最近の筆者の課題となっていた。その際に、貴重なヒントを与えてくれたのが、前節で紹介したカオス理論や複雑系の科学における発展であった。たとえば、カオス理論で重要な役割を果たしている概念として「アトラクター」がある。混沌状態に陥った家族療法の過程を記述するうえで、この概念はきわめて有用だ。ちなみに、アトラクターには「点のアトラクター」、「奇妙なアトラクター」等々さまざまな種類のものがあることが知られている。自然界の複雑で流動性に富む現象の過程そのものを記述するための道具として、すでにこの概念は市民権を得ていると言って差し支えない(Nicolis,G.,Prigogine,I.,1989)。
家族療法におけるセラピストや治療チームと家族の間の相互交流過程は、単一のパラメーターでは記述しえない複雑系であることは、論を待つまでもない。そこで、カオス理論に代表される複雑系の科学から生れた「アトラクター」という概念を、家族療法の治療過程を記述する際の鍵概念として使うことを思いついた。ここで、アトラクターとは、「磁石が鉄を吸いつけるように軌道を吸いつけるような位相空間中の領域」として定義されていることを紹介しておきたい。90年代のはじめ、家族面接の最中の、しかも、展開に行き詰まりを感じていたときに、この言葉が筆者の脳裏に浮かんだのである。最初は、自分が底無しのブラックホールに吸い込まれるような感覚を抱いた。同時に、家族のひとびとも同様の体験をしていたのではないだろうか。面接場面にいた全員が混沌に吸い込まれようとしたその瞬間に、「アトラクター」という魅惑的な言葉が、ある種の秩序の誕生を予感させた。面接過程のその瞬間には、家族療法家としての筆者も家族も共に混沌のただ中、つまり、共通の点アトラクター上に「在った」からである。かくして、アトラクターが、混沌と秩序のつなぎ目を意味していることを、筆者なりに体験したのである。
家族と共に混沌の渦中にとどまる体験を繰り返すうちに、最近ではその渦から抜け出るコツのようなものがあるのではないかと、考え始めている。これを仮に「渦抜けの技法」と称しているが、まだ断片的なものであって体系化されておらず、いくつかの臨床体験の共通項を拾い出しているに過ぎない。しかし、幸いなことに「渦」のイメージには、さまざまな臨床体験を凝縮したような側面があり、混沌とした体験過程の流れを一点に引き付ける、まさにアトラクターのような使い勝手のよさに大いなる期待を感じているところである。
かつて家族療法を始めた80年代前半には、家族が作り出す感情の渦に巻き込まれまいと必死であったことを思い出す。確かに避けうるものはそうすべきであろう。ただし、すべての渦を避け切れるものでもないと考えるようになってきた。また、渦中に巻き込まれれば、それが最後ということでもないことを体験した。恐怖の一瞬ののちに渦から抜け出ている自分自身と家族を再発見した体験が幾度かあるからである。渦を抜け出るきっかけや手掛かりは、実に微妙なものだったように記憶している。面接室の窓の外からふいに聴こえてきた「セミの泣声」であったり、「一陣の風」にさわやかさを感じた瞬間であったり、ある独特の「間」のあとに、渦を抜け出た体験が訪れたように思う。したがって、それは技法とも呼べるものではなく、ある種の体勢や構えのようなものなのかもしれない。
いずれにしろ、このような体験の後で、筆者のなかから面接場面での恐怖感が消えたことは事実である。この渦を抜けた体験の波及的ないし持続的効果については、カオス理論でやはり重要な役割を持つ「ソリトン(孤立波)」、とりわけ「渦ソリトン」と呼ばれる現象に極めて類似しているとの印象を持っている(Briggs,J.&Peat,F.,1989)。それは、セラピスト自身の能力や力によって渦を操作、支配、あるいは回避するというのではなく、静かに身をまかせて待つという心境なのである。困難な状況をかかえた家族を前にして、自分の無力さを直視するいくばくかの勇気をふるいたたせることなのかもしれない。かつて、家族の問題を解決しようと自分の身体に力を入れていたやり方とは、明らかに違ってきた。無手勝流の類かもしれない。いずれにしろ、いったん飲み込まれた渦からさえ生還できたという体験は、私にとって実に貴重なものであった(亀口、1997)。
先に、困難な家族面接過程での家族療法家としての体験を「まるでブラックホールに吸い込まれるようだ」と形容した。筆者は、これを単なる比喩的な表現にとどめず、家族療法家にとっての体験過程、さらには家族やIPのそれをも包含する家族療法の体験過程モデルを形成する足場にしようと考えている。ブラックホールなる概念については、ホーキング(Hawking,S.W.)ら宇宙論の研究者の著作によって一般にも広く知られるようになったが、これはすべての物質(あるいは情報)が吸い込まれる穴を意味している。さらに、このブラックホールそのものが消滅することが理論的に証明されている。その結果、いわゆる時空の虫食い穴(ワームホール)を想定する必要が出てくる。
ワームホールとは、ブラックホールの概念図において、物質がないためにその図の底が抜けて、もうひとつの別の世界へつながっているものである。しかし、実際には、別の世界が急に生成されるとは考えられないので、それは、この世界の別の場所であろうと思われる。筆者は、このワームホールの概念図を下図として利用し、家族面接における家族療法家の体験過程の図像化を試みた(亀口、1997)。図の左側の吸い込み穴に円球で表示した家族と家族療法家が接近し、共に下降しながら螺旋運動を始める直前の状態が、家族面接を開始した時点の状況描写となっている。面接開始後は、日常の時空間とは異質な臨床的体験がなされる面接室の時空間を暗示する「管」や「トンネル」を通過して、面接終了と共に右側の穴から再び日常の時空間、すなわち現実世界に戻り、家族療法での関係を解いた状況を描写している。

参考文献
亀口憲治 家族臨床心理学 東京大学出版会
亀口憲治 家族のイメージ 河出書房新社
亀口憲治 家族療法的カウンセリング 駿河台出版社
亀口憲治 家族療法 ミネルヴァ書房
亀口憲治 家族力の根拠 ナカニシヤ出版

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